「もう少しだから。」
ある雪の日
走った。
生まれてこのかたこんなに走ったことは一度も無い。
狭い遊郭の床しか踏んでこなかった私には辛い道だった。
「は、ぁ・・・大丈夫です。」
丁寧に手入れした黒髪が揺れる。
これが私の唯一の自慢だった。
彼が初めて会ったときに、綺麗だと言ってくれたから。
「おい!「雨」がいたぞ!」
彼は私の手を握ってまた長屋の間のごく狭い道を抜ける。
彼は全くの日本人では無い。
彼の母親は日本人だったが、父親は蘭の方だ。
幼い頃から私は彼を知っていた。
私のいた遊郭「静屋」が贔屓にしている近くの簪屋の遣いとして、彼はよく出入りをしていたから。
「クソッ!何処行きやがった!?」
誰かがそう遠くないところで大きく悪態を付いた。恐怖のせいか、寒さのせいか足が細かく震えてしまう。
彼は私をかばうように抱きすくめてやり過ごした。
私の息も彼の息も白くその場に舞う。
彼には蘭語ではなく、何か私の知らない言葉だけれど「雨」の意味の名がある。
この国では彼の名はあまりにも奇妙で
周りは彼の本当の名を決して呼ばなかった。
私以外は。
稀有なものを頑なに認めようとはしない、そんな国に私たちは生まれたから。
優しかった先代の御主人が幼い私に買ってくださった異国の絵草子。
彼の髪はそれに描かれた異国の砂の様な美しい薄茶色をしている。
瞳は夜に生きる私たちはなかなか見ることはできないけれど、怖いぐらい澄み切った冬の青空の色。
明日の空の色は彼の瞳のそれと同じだといい。
どれも私の大好きな彼の色だった。
「少し、休むか?」
今は夜の闇に溶けてしまってよく見えないけれど。
「ううん、平気。・・・もう少し、でしょう?」
親は生まれたばかりの私を困窮のあまり今の店に売った。
彼の母親は自分と彼を置いて国に帰った彼の父親を恨み、酒に溺れて亡くなった。
彼はつてを頼ったあげく簪屋に拾われ、育てられた。
いつも傷だらけだった彼はそこでも相当な苦労をしていたのだろう。
しかしこうなった今でも彼は私には何一つ話そうとはしなかった。
私たちが「知り合った」のは私たち二人がちょうど十のとき。
店の裏で彼は空腹の余りに倒れ臥していた。
私の躯は将来売り物になる。
私はこの場合もこういっていいものか分からないけれど、恵まれた容姿をしていたために暴力は振るわれなかった。
それでもやはり食事は残飯のようなものしか与えられなかったけれど、それでも食べなければ死んでしまう。
大切な食事だったけれど彼に全てをあげた。
全てのきっかけだ。
私はその出会いがとてもとても大切で、どんな重い決意をして彼に食事を差し出したのかをよく話した。
恩を売りたかったわけでは決して無い。
ただ、広い世界の中の狭い私達の世界で、2人が確かに出会ったことを私以外の「誰か」に認めて欲しかっただけ。
彼は渋い顔をしながらも何度も「ありがたかった」と言って私の頭を撫で、抱きしめてくれた。
渋い顔をしていたのって照れるのを我慢してたんでしょう?
照れ屋だものね。かわいいあなた。いとしいあなた。
親に見離された辛さや人の冷たい仕打ちに冷めた心、同じ年頃の友達がいない寂しさをお互いすぐに感じ取ったためかもしれな い。
私達は当たり前のように惹かれあい、供に大人になってきた。
まだ私に自由があった頃には明け方に遠くの川まで行き、そこで少ない賄を分け合ったりもし た。
後で ひどい罰が与えられることはお互いに承知していたけれど、寝る間も惜しんで二人でいようとしていたあの頃が懐かしい。
幼い私たちは知っていた。
これは今だけの幸福なのだと。
「いたぞ!こっちだ!」
提灯の薄明かりに照らされて、彼がまた私の手を強く握る。
きっと感じられたら痛い程だろう。
しかし凍えるような雪の道を着の身着のままで出てきた私には、もう感覚というものは遠い。
「もう、少しだから。」
ああ、大丈夫よ。
もう少しだから。
もういっそ、千切れるほどに強く手を握ってもう離さないで。
「う・・・はぁはぁ。」
肺が潰れたように痛くて、微かに血の味がする。
優しい姉さんにもらった気に入りの簪もどこかに落としてしまった。
彼女ももう今は亡くなったけれど。
私が十七になった年に先代の主人が流行病で亡くなり、彼の息子が新しく私達の御主人になった。
私の「水揚げ」の日と相手を彼は早々に決め、私に高い値を付けた。
私の顔に、声に、躯に高い値が付いた。
姉さんたちはいい気味だと私を罵った。
悪魔の子と付き合った罰だと。
私の相手は、彼を長年苛め続けてきたと思われる簪屋の一人息子だった。
女遊びの酷い男で、そのためかかった病気がもう半分頭に上っているそうだ。
私もきっと無事ではいられない。
その知らせの二日後、彼は傷だらけで簪屋を追い出されたままに私の元に駆けつけてくれた。
きっと私のことで彼はこうなったのだろう。
彼に謝ることは出来ない。
それが彼の私を愛する覚悟の表れだったからだ。
彼のために泣く事も出来ない身の上だったけれど、搾り出すように必死に声を出した。
買うも買われるも同じ人。
ここはこういう世界なんです。
だからどうか。
「いつか、私を買ってくれるという約束、して?」
嘘でいい。これから人のものになる体。
きっと狂って死んでいく私。
友のように、優しかった姉さんのように。
赤いお布団の上で、毒のある綺麗な蝶になる。
そしてその毒で人を殺し、最後には自分も死ぬ。
ただ今は嘘の約束をください。
嘘でなきゃいらない。
あなたを縛る本当の約束はいらない。
ただ今だけ私の心を守る約束をください。
彼は私を抱きしめた。
「金で買ってはお前を抱けない。」
買うも買われるも同じ人。
なのにどうして。
どうして私達は想いあってしまったのか。
私達が逃げたのは、水揚げの予定日の前日だった。
「ここは・・・。」
私達がたどり着いたのは二人でよく来た川だった。懐かしい匂いがして鼻の奥がつんと痛くなる。
彼がまた私の冷たい手を強く握りなおした。
追っ手もきっとすぐにここに辿り着くでしょう。
彼は私の方をじっと見つめた。
「すまないと、思っている。」
分かっていました。
知っていてあなたと逃げたんです。
もう私は、何もいらない。
不相応なほど十分過ぎるほどあなたにもらったから。
私は彼に微笑んで、静かに首を振った。震える彼の手が痛々しくてそっともう一方の手も重ねる。
私の冷たい両手が彼の手を包んだ。
「お前はありのままの俺を全て受け入れてくれた。俺はお前に何も出来なかった。」
「そんなことない。いっぱいもらったよ。私を守ってくれた。一緒にいてくれた。」
雪に月の明かりが反射して周りはぼんやり明るい。
彼の手も私と同じで心底冷えているはずなのにとても暖かいと思う。
お互いくちづけさえもしたことはない唇で最期に向けて言葉を紡ぐ。せっかく二人きりなのに、最期の逢引だから姉さんの紅をこっそりさして来ればよかった。
私が笑うと
いつもは無表情な彼も優しく微笑んでくれた。
それだけで恐怖も不安も心の片隅に追いやられ、ただ彼への想いが膨らむ。
彼に手を引かれてゆっくりと冬の川に向かった。
「好き、です。」
冷たいはずなのに何も感じない足。
「 」
彼が私の名を呼ぶ度に、泣きたいくらいにせりあがってくるこの感情。
私は感じないけれど、彼は冷たいのだろうか。だったら私が暖めてあげたい。
また彼の髪と瞳の美しい色に
そして私の愛した彼に出会えますように。
彼の愛してくれた私のままで。
私の黒い髪、黒い瞳
私の、救い人の再来を表す名。
あなたにまた呼んで欲しい。
冷たい冬の川の中
はぐれないようにしっかり手を握ってね
これから向かうところは誰も知らない場所だけれど
変わらない想いが胸にあり続けることを私は知っている
あなたを愛しています
あのね
この川が私の涙で溢れるほどに
END